昭和54年4月15日 朝の御理解

御理解第92節   神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違う                   ところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが                   受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。                神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く                   起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。

 お取次をされる先生方の御理解だと思われます。皆さんも感じておられる事であろうと思いますけれども、今、合楽で皆さんに日々聞いていただいておる、お話は、まあ大変なお話しだという事でございます。
 ね、同時に毎日そのことを思うのですけれども、皆さんが御祈念中に、え、祈願詞を奏上されます時に、もうあの通りのおかげを受けておるのが合楽です、あれを読みながら合楽の信心を思うて見て御覧なさい、あの通りのおかげを合楽教会では受けておるのです。
 ああいうおかげを受けなければならんじゃなくて、もう受けておるんです、ですからここに御神縁頂いて、え、おかげを頂いておられる方達も、だからその通りのおかげをめいめいの信心の上に、または家庭にそういうおかげを表しておいでなければならんのですね、あの唱え言葉はどなたが作られたか知らんけど素晴らしいと思うです、もう初めから最後まで合楽はあの通りのおかげを頂いております。
 ですからあの通りのおかげを頂いて、いよいよ世界総氏子の助かりだけではない、それこそ今合楽で願われておる、天地と私共の住まわして頂いておる関わりあいを思う時にその関わり合いのある、その天地のこともまた祈らずにはおられん願わずにはおられんと、一飛躍を遂げなければいけんね、そん為には皆さんが、あの祈願詞にお唱えになっておる通りのおかげを皆さんが先ず頂かれて、初めて合楽理念の実証しておる事になるのではないでしょうか、言うならモリモリの力とおっしやるモリモリの力とも思われませんけれどもね、やはり合楽には特別の一つの御神願と言うものがあってそのご神願が今著につこうとしておるところではないでしょうか。
 私は昨日、今度後本部で頂いてまいりました、明日を担う者が今というあの御本ですけどもこれは私と泉尾の先生のお話しをまとめたもので、もう私は今質疑応答の所を読ませて頂いておるが、まあ本当に言いたい事を言っておるしまあ素晴らしい説明がでけておる、合楽で言いたい、合楽で皆さんに分ってもらいたい、しかも全教にわかってもらいたい、いや全教どころじゃない世界中の人にわかってもらいたいといったようなお話をしているんです、私はこれを読ませて頂いてもうやめられんもんですから昨日はやんがて五時近くまで読みふけりました、その読みふけっておる間に私が四時の御祈念をさせていただいておったらこ万なさっただろ、又がっかりしなさっただろうというような人がその間に参って来るんですね.。
 私が座っとって良かったといったような人達がお参りをして来るんです合楽にはそういう一つの私が読みふけっておるのじゃない神様が読みふけらして御座るなといったようなものを感じずにはおれませんね、昨日九時あの、九時過ぎだったでしょうか伊万里から新たなお導きをして参って来ておるかたがございました全部で五名参っておりましたので丁度私はテレビを見ておりました、古賀政男さんの何か一代記のようなまあ映画でした、それで丁度よかとこで呼びに来たからもう立つのが惜しいよう感じがしたけれども、そんなわけにわいけんから、あの立たせていただいたんです。
 それでちょうど三十分ばかりお取次ぎかからせて頂いて、そして下がらして頂きましたらほかんとがあよりますもん、どうしてこれしまえたっかと私申しました言え先生ああたが立ちなさったらすぐあれが古賀政夫さんのが中止になって今から30分間特別なニュースがありますからからというて切ったというわけです、いやあたしがみたいとおもよったから神様が30分間待っておって下さったんだなというてまあ見せて頂いたような事でした。
 というようにですねいつものりにのりというか何時も一つの調子に乗って合楽教会は動いてるんです、ね、ですから私の祈りの圏内においてもやはり同じおかげが頂かれなければならんのですけれども、そこに信心でない事柄が入ったり信心でない思い方があったりとにかく合楽と調子があってない所に私は問題があるんだ難儀があるんだと言う風に思うてですね。
 だから合楽というところはこちらが合楽の一つの調和音がきけれるように合楽の時間といつも自分の持っておる時間がとが合っておる、まあ日参をするといったようなことはそういうようなことじゃないでしょうか、やあ何日か参らんかったら自分の信心がもうずれてこんなに遅れとるというようなことがわかるということじゃないでしょうか。
 私は昨日、例えばこちらが聞いてもらいたいとような事がね、今お知らせを頂くというような事はどういう事ですかと、信心の稽古の手がかり、合楽理念と示現運動と言うのはお取次成就信心生活運動を自己展開したようなものであろうと押さえて宜しゅうございますでしょうかと言ったような質問なんです。
 示現運動の具体的な中身示現運動の具体的な活動内容と言ったような質問があった、教会家庭をどう見るかと言うそのまま合楽教会の家庭の事を話しております、そこを聞かれたら困るというのではなくてもう話したくてそこんところを聞いて下さいと言う事ばかりを、ここに質疑になっておるんですね十三日会について天地のリズムにのってということはどのような事でしょうかとか、もう合楽でみなさん日々聞いて頂いておる。
 昨日日田の共励会で文男先生が遅く帰ってきてから足揉みにやってきてくれましてから色々信心話の中にでしたけども、どうもその合楽の信心と言うのが、まあ言うならばその、お釈迦様じゃないですけども天上天下唯我独尊的なものがあるように聞こえるらしいね、もうとに角合楽は合楽が一番最高のようにいうと、それを絶対と言ったような事を連発しながら話すもんですから、そういうところが反発を買う又それに帰依しておる人たちはそうどこじゃないそうどこじゃないというて聞くんですけどもこれはそりばってんほんなこっじゃからというて話した事でした。
 合楽の場合はそれをささやかではあるけれども私の言うておる事を実証しておる、そしてこの御話しを私は読ませていただきながらその一こま一こまにもそのつい最近ある一つの例話というのがふんだんに話しておりますですから分かりやすくといておるこれがこれが日本国中の教会にいうならそれこそ津々浦々の教会にこのご本がいっとるですから読みなさると合楽に対する認識がまた一段と変わってくるだろう、中に入って広めると神様が仰ったがこういう働きが起こっておる。  
 ねたとえば13日会については神の願いが成就する日と言うだけでなくてお詫びが叶う日と言ったような意味の説明しておるのに丁度そん時に私はその朝竹内先生が一緒に同道しておられましたからあのなんとかホテルのエレベータが沢山ありますね10幾つあるその中に,その十二,十四はあるけれども,その十三はないんだそうですだから十三に乗ったら悪い事が起こるかん知れんけんといったようなそのおかしな事ですねとああいう一流の大ホテルがですね,言うなら十三という日をそのように忌み嫌うその嫌うという日を合楽では神愛の日,詫びれば許して頂ける日として大変尊んでおるといったような調子でもうその具体的に説かれておるです。
 これはこの間の十三日会だってそうでしょうが十三日会といえば十三日といえばしかもその金曜といやいよいよ悪日と言われる,その日に合楽では大変おかげ頂いて言うならば竹中との建設との建築の約束がでけて二十三日に起工式といったような運びにまでなる日だ,んなら今日は十三日会じゃけん今日皆で行こうといったようなじゃないそういかなければならないようになっていった。
 ね、と言うようにですねそういう実証をふんまえて、んならいかにもわたくしよがり,言うならば合楽,もう自分よりよかっはなかごとおもとる、余暇後とやっぱり思い込まなければいけんですだから他宗派の言うならば価値観というものはだから合楽の信心が合楽理念が本当に世に問われる事に成ったらもう他の宗教の価値観がなくなるほどしのものです。
 ね今度の案内にも書いてございますねそういうことが、だからそういうところを皆さんが信じて、そして分かって下さって、そういう尊い有難い教えを合楽では頂いておるんだという事をふんまえての日々でなからなければならんのです。
 今日皆さんに、これは教師に対する言うならば信者がお参りがないとか信者がわからんとかと言うのは、結局お前がわからというて分からんのぞ、お参りが無いのはモリモリノ力が足りんからだという風に説いてございますけれども、合楽の場合もまあ同じ事だと思うんですけれども,ね,合楽の場合には特別な何かがあるのだと、天地の親神様が金光大神を通して、金光大神がまた合楽を通していよいよ自分が天地金乃神からご依頼を受けておるその願いが具体的にしかも絶対なものとして、え、広められていく働きがです、ね今合楽では起こっておると言う事実をね皆さんが分からしてもらい、そしてそれを行の上に現して、ねしかも現そうという気になれば楽しゅう有難う愉快にまで今申しますようなリヅムが切れることが無いそのリズムに乗っての生き方。
 けれども中々生身を持っておりますから、まあちょっとした油断がある昨日私はここに出てくる時に、もう温いと思うてこのメリヤスのシヤッを脱いで出て来たそして夏の小さい肌着一枚で上からこの奉仕着を着せていただいたら、なんかスース―すると思いよったらもう風邪引いた、そう言う油断がある、神様にお願いさせて頂いとりましたらカンナの切れるところですね、あれをこうやって打ち込むところを頂いた。
 言うならば身にカンナをかけるような修業を大祭前にさせて頂くのぞと言うお知らせを頂いたもうどれだけ信心が分かったから進んだからというて修行が無いという事はないです、まあだ私に身にカンナをかけるような修行を神様が求めておられるわけです。
 してみるとこれわこまったこっじゃある明日は大祭だからというて困る事は要らん結構な修行をさせて頂いて有難いと言う事になるのです。御祈念の時に頂きました、私が目をこうやって押さえておる所を頂きました。
 それを誰かが後から目をこうやって手を取ってくださった、どうでしょうこの目が見えてなかったら、あのこう自分で目をふさいでおる時には分かりませんよだれだってけれどもあの後からこう手を放して下さった、あの、子供の頃おらんおらんばーするでしょうが後から、あんなふうで目を隠し取るです自分がしたら後からその手をこうやって取るところを頂いた。
 ね、そして思うことはです、これはどうでも信心させて頂いて、信心させていただくものは肉眼を置いて心眼を開けと仰るから心眼の開ける所までは精進しなければ皆さんいけませんよ、ね、精進して心眼が開けるとです今まできつい事じゃある困った事じゃあるという事賀です、もう本当に心からお礼を申し上げねばならない事が分かるんです心の目を開かせて頂くと、なら私もだいたい心の目を開かせて頂いておると思うけれどたまにはその油断があって自分で自分の目を隠しておるような、そして後からこう外して頂いたらハットこう次のが明るく見えるというのです。
 ね、だから私がもし目が見えなかったらこの手を取って下さってもやはり目の前は真っ暗である、これは心眼を頂くと言うほどしのおかげを頂いておってもやはり一生が修行じゃと仰せられる修行に取り組むという事。
 その修行が又とても楽しいんだ有難いんだという、そういう限りない信心修業にお互い取り組ませて頂いて、肉眼を置いて心眼を開かせてもらうおかげを頂いて、もう一切お礼を申し上げること以外にないと言うような日々を過ごしたい今合楽ではです、それがいただけるときなんです、いうなら横に実証を、横に手本を置いてからこう言う風な信心をすればこう言う風におかげいただけるよと、昨日妹がああ、椛目の妹がお礼参拝して神様に色々お知らせいただいた中に、本当にあの人たちは人間的に私よりも出来とるし、信心も手厚ういたします、それに、え、信心がいろいろ詳しくなるとか、え、一生懸命拝むと言うような事をあの人私と同じに朝の時間を自分の家で一時間づつ御祈念をするそうです、その御祈念の間に色々お知らせいただく、それに結局はね信心が進むということは心が大きく豊かになることぞと言うことを頂いた。
 だから心が少しづつでもね豊かに大きくなっていかねばならないと同時に言うなら心の目を開かせてもらう、ね、生身を持っておりますから何処にお粗末ご無礼があるやらぶちょほうやら油断があるやら分かりませんけれども、その油断がある時でも神様がちょっと手を後からとって下さると、ああ油断だったなと直ぐ分かるような、直ぐ取り返しができるような、意やどう言う痛い痒いのことに至るまでお礼を申し上げねばならない事ばっかりである用にです、もう親先生そげん生身にカンナをかけるごたる修行端なさ欄でよかろうと言う事はないと言う事です。
 ね、ところが私は、ああこれは辛いこっじゃあるなではなくて有難いなという答しか出てこんのです、ね、修行というものは尊い有難いものなんです。苦しい事をそれこそ生身にカンナをかけるようなと申しますけれどもカンナをかければかけるほど自分の光が出てくることを知ってますから有難いです。
 ね、モリモリの力によってお広前のごヒレイが変わってくる、ここで私が力があるとも思われませんけれども合楽には確かに、ね、合楽理念示現活動、そういうものを今の教団の御取次成就信心生活運動新発足の中に入って広めるともう1、2年前でしたかねご大祭の時にあちらのご大祭の時に頂いたことでしたけれどもです、もうこんなにも間違いのない、全国のどう言う津々浦々の布教所教会全部の教会になら私の言わば一番聞いてもらいたいもの一番分かってもらいたいものをもう懇切丁寧にもう分かりましたかと、いちいち皆分からない所は手を上げて質問して下さいと言うような表現で聞いて頂いておるまあ長い合楽の信心をですね、私は改めて読ませて頂いてハアこれを全国の先生方が読んで下さってね、これは本当に合楽が言ってる事が本当だと言うふうに分かってくださる方達も段々あろうかと思う、それを又実証して下さる教会ができるとも思うね、中に入って広めると言う頂いておったがこう言う働きが起こっておると言うような事も私が言っておることの実証ですじゃないでしょうか。
 ね、合楽の場合は実証を分舞えての言うならばお話しかも今までかって聞いた事のないほどしのです言うならば前代未聞開闢以来宗教以前の宗教と言うような信心がね言うならば語られそれをお互いの信心の信条とさして頂かねばならんというふうにここでは解いております。ですから合楽ではねそれを頂き勉強しなければねせっかくの合楽の今の御ヒレイに乗り遅れることになる、ねいうならば合楽で起きておる事柄と同じようにね、いうならば合楽の時計に有ったリズムにおうたいきかたになってまいりますと、辛い苦しいと言う事までも、有難いものになってくるのです。
 氏子のいうならば参詣の遅い早いに関わるのもいうなら教会長が朝早起きをするからお参りも皆が早く参ってくる。根、これはどういうことかというと私どもがこういう信心をすればこういうおかげが受けられると言う事なんですよね、こちらが言うならばとんをの受け物をつくればとんをのおかげが受けられると言う事です。
 そうでしょうがね、教師が朝寝をしておるそして信者は朝はよう参ってくるとはおっしゃってない、教師が朝早起きをすればね、信者も朝早くから参ってくる、私共が大きなおかげの受け物を作れば大きなおかげが受けられるだから楽しいんです修行がね、いよいよんなら大きくなる事に精進しなければおられんのです。 どうぞ